採録|『ケイコ 目を澄ませて』アフタートーク  vol.1|北小路隆志

2023年2月24日、三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』のヒットを記念し行われた、出町座でのアフタートークの模様を全4回に分けてお届けします。初回である今回は、『ケイコ 目を澄ませて』を過去作と関連づけて考えてみようと思った背景や、三宅映画を観る上で欠かせない1つの視点についてのお話です。


◆はじめに

© 2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

きわめて個人的な話から始めますと、『ケイコ 目を澄ませて』はもちろん去年観ていて、年間ベスト10といった機会でも、もう断然1位だと思ったから1位にしたまでなのですが、つい一昨日、この出町座でもう1回スクリーンで観させていただき、自分でも少し驚きましたが、あらためて泣いちゃったわけです。この世には、いろいろタイプの映画がありますけど、僕のなかでは、観た後、みだりに話をせずに、ぐっと想いを噛み締めて家に帰った方がいいよな、というタイプの映画もありまして、正直、一昨日、あらためて『ケイコ 目を澄ませて』を観た後の感覚はそっちの方でした。ですから、これは自殺行為ですけど(笑)、映画評論家と称する人が、いろいろとこの映画について喋るのをぜひとも聞きたいとは僕だったら思わないかもな、と。なので、こうやって皆さんが残っていただいたことそれ自体にすごく感謝しつつ、今日の話を進めていきたいと思います。

いろいろな角度から論じることのできる間口の広い映画なわけですが、今日はせっかくの機会なので、三宅唱さんのこれまでのお仕事を振り返りつつ、ある程度、系統立てて、どうして『ケイコ 目を澄ませて』はここまで素晴らしいのかを考えてみたいと思います。そんな面倒なことはするまでもなく、三宅さんの過去作と関係なしに『ケイコ 目を澄ませて』は素晴らしいとも思うのですが、ただ今日は、過去の作品をちらほらお見せしながら、1人の若い映画作家がこんな地点にまで到達したんだ、というプロセスを時間の許す範囲でお話ししたいと思っています。

そう思い立った背景には、結構刺激的な映画を作っている、ややへそ曲がりな若者から受けた質問があるのかもしれません。彼は、「たしかに『ケイコ 目を澄ませて』は素晴らしいと思うけど、あんなに絶賛されるのはどうしてなんだ」といった質問を以前、僕にしてきました。「悪いけど僕も絶賛するから」と、あまり時間もなくてその場は終わっちゃったのですが、逆に言えば、そんなややへそ曲がりな子にしても、素晴らしい映画であることは認めざるを得ない、というのが『ケイコ 目を澄ませて』のすごさでもあるな、と思ったりもします。後で少し話すことになるでしょうが、その子の質問というか発言が印象に残ったのは、僕自身、必ずしも三宅さんの初期作の良き観客ではなかったかもしれないからで、それが、今回、三宅さんの過去のお仕事を振り返りながら『ケイコ 目を澄ませて』について話そうと思い立った動機の1つでもあります。

◆三宅映画を紐解くキーワード:「サイド・バイ・サイド」と「フェイス・トゥ・フェイス」

最近では、『ユリイカ』という雑誌(『ユリイカ2022年12月号 特集=三宅唱』)を中心に、いろんな『ケイコ 目を澄ませて』論や三宅唱論が出ていて、そういうものにも目を通したりするなか、今日、僕がお話ししたいことの枠組みをすごくシンプルに指摘してくれていたのが廣瀬純さんでした。その『ユリイカ』には、廣瀬さんと三宅さんが以前、対談したときの記録が再録されていまして(三宅唱、廣瀬純「何も見ない顔──『THE COCKPIT』『きみの鳥はうたえる』における眼差しからの解放」『ユリイカ2022年12月号 特集=三宅唱』pp.250-259)、そこではだいたい次のようなことが話されています。

映画で複数の人間を捉えるとき、大きく言うと、「フェイス・トゥ・フェイス」で撮るのか、「サイド・バイ・サイド」で撮るのかという選択肢があるだろう。「フェイス・トゥ・フェイス」というのは、顔と顔が向き合うかたちです。要するに切り返しとかで処理されるケースがその典型ですよね。2人の人間を撮る場合、まずAの顔を撮り、次にBの顔を撮る、というかたちで、顔と顔が向かい合う2人を撮る。他方で、「サイド・バイ・サイド」は複数の人間を横に並べて撮る。横に並ぶAとBが同じ画面のなかで捉えられる。

廣瀬さんは映画だけでなく哲学的な素養も豊かな方なので、たとえば「フェイス・トゥ・フェイス」の方法論にはエマニュエル・レヴィナスという哲学者が関係してくる、とおっしゃっています。レヴィナスは、人間の「顔」がすごく重要だっていう話をするんですね。たとえば極端に言うと、顔を見たらその人を殺せなくなるかもしれないけど、顔を見なければ殺せるかもしれない。顔はそれぐらいその人間の存在を規定する非常に重要な、あるいは他に置き換えることが困難な固有の要素で、たぶんナチスのユダヤ人虐殺などでは、顔という固有性を排除した上で人間を匿名的な数に還元してしまい、だからこそ、あれほどまでに大量の死者を量産することができたんだ、といった議論も成り立ちます。映画の話に戻すと、人と人が恋に落ちたり、恋に破れたり、駆け引きや葛藤の渦中にあったり、といった「闘い」も含んだ人間関係が「フェイス・トゥ・フェイス」に収斂される。

一方で、「サイド・バイ・サイド」は横に並んでいますので、複数の人間のあいだに何らかの共有事項があって、2人が——3人でも構わないんですが——、いったい何を一緒に見ているのか、その共有事項が何なのか、いかなる力によって横に並んでいられるのか、という点が問題になってくる。哲学的なことを言うと、そこでプラトンが……という話になるんですけど、それは映画を観ることにも置き換えられると思うんです。映画を観ている2人、3人……あるいは皆さんも先ほど映画をご覧になったと思うんですが、横に並んで一緒にある映画を観て感動する、頭に来る……という経験が日々繰り返されていきます。横に並んでいる「サイド・バイ・サイド」という関係性は、どちらかと言うと、闘うまでもなく横に並んでいる夫婦——まぁ夫婦も時には闘いますけど——が、一緒に自分たちの子供を見ている例で説明できるでしょう。何かをもう共有している、そういう2人の関係性が「サイド・バイ・サイド」に収斂される。

そう考えてみると、先にも述べた「フェイス・トゥ・フェイス」の関係性は闘いの要素も孕んでいる緊張した関係性と言えるかもしれません。恋人たちは、その恋を続けられるのか、夫婦に至ることができるのか、といった闘いの次元にまだいる。「フェイス・トゥ・フェイス」の関係性で人はともに映画を観ることなどできない。

廣瀬さんは、三宅さんとの対談のなかで、こうした2つの選択肢とそれに付随する人間の関係性の2つの捉え方を提起されていて、そこでは主に『THE COCKPIT』(2014)という三宅さんの映画が対象になっていました。

僕にはこれが、三宅唱の映画を観て、いつも考えざるを得ないこと、彼の映画の魅惑の核心をすごく説明しやすくしてくれる構図だと思われます。今日の話は、そこで提起された問題を継承しつつ、その対話の時点でまだ作られていないがゆえに、もちろん触れられていない新作『ケイコ 目を澄ませて』をはじめ、彼の他の作品にも対象を拡張させて考えるとどうなるだろうか、といった試みになるでしょう。そこで、ここから三宅さんの過去の作品も少しずつ上映し、随時、『ケイコ 目を澄ませて』にも言及することで話を進めますが、さして遠くない機会に組まれるであろう「三宅唱監督特集上映」に何の前知識もなく臨みたいのだ、という方からすると、ちょっとおいおい、っていうところも含まれる話であるかもしれず、もしもそういう方がいらっしゃったら申し訳ないので、いつ席を立たれても構いません。そうされても僕は傷つきませんので(笑)。


三宅唱監督特集2023(出町座)

『ケイコ 目を澄ませて』ロングラン御礼企画(2023/04/28-2023/05/25)

三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』は2022年度の各映画賞で非常に高い評価を得、多くの観客からの絶大な支持も受けました。出町座では昨年12月の封切りよりロングラン上映中ですが、ご来場のお客さまがいまだ途絶えることがありません。そんな稀有な作品を世に放った三宅唱監督のこれまでの作品を独自の形で上映します。劇場用長編映画として撮られた作品はもちろん、インディペンデント作品、アートプロジェクト企画や地域との連携、ミュージックビデオなどのアーティストとのコラボレーションなど、非常に多角的なフォーマットに柔軟に対応しながら、ひとつひとつが明確なアプローチを持ち、原初的かつ新鮮な映画的魅力に満ちた三宅監督の多様な作品群を、ぜひこの機会にご体験ください。

◉上映プログラム◉

【Aプログラム】『1999』『4』『マイムレッスン』『やくたたず』

【Bプログラム】『スパイの舌』『NAGAHAMA』『密使と番人』

【Cプログラム】『Playback』

【Dプログラム】『きみの鳥はうたえる』

【Eプログラム】『THE COCKPIT』「Goin Back To Zama City」

【Fプログラム】『無言日記2014』『土手』

【Gプログラム】『ワイルドツアー』

【Hプログラム】『無言日記2015』『ROAD MOVIE』

◉トークイベント情報◉

5月3日(水・祝)【Bプログラム】上映後
登壇:三宅唱監督
聞き手:北小路隆志(映画批評家/本学映画学科教授)