2023/09/19 於:出町座

ゲスト:アルノー・デプレシャン
聞き手:北小路隆志
通訳:坂本安美

2023年9月19日、アルノー・デプレシャン監督の来日にあわせて、出町座では『魂を救え!』の上映とデプレシャン監督による上映後トークが行われました。聞き手として映画評論家・本学映画学科教授の北小路隆志も登壇した、当日のトーク採録を公開します。


北小路:会場にいらっしゃった皆さんは、あなたが30年ほど前に撮った映画をご覧になったばかりです。これから『魂を救え!』(1992)について、いろいろと質問していくことになりますが、あなたにとって過去の自分の映画について話すことは容易なことでしょうか、それとも逆に難しいことでしょうか?

デプレシャン:自分の映画の「観客」になることは難しいものです。当時、『魂を救え!』はカンヌ国際映画祭のコンペティションで上映されましたが、劇場のなかに入って観ようとするフリをしたものの、結局観ることができず、最初と最後に会場にそっと潜り込みました(笑)。とはいえ、この作品については、デジタルレストアをした際に、撮影監督のカロリーヌ・シャンプティエと修復作業に携わったので、最近見直しました。そのレストア作業のなかで各ショットを検討することになるわけですが、なぜこのショットがここにあるのかなども含め、すべてのショットをちゃんと自分が覚えていることに気づかされ、カラーグレーディングを担当してくれた人にも驚かれました。自分の映画の「観客」になることは難しく、好んで見直すなどはしませんが、それでも映画をすべて覚えている自分がいた。ですから、ご質問に答える準備も万端ですよ!

北小路:いま、カロリーヌ・シャンプティエの名前が挙がりましたが、監督の初期のお仕事では、エリック・ゴーティエというカメラマンとコンビを組まれ、数々の傑作を撮られた印象がある。だけど、『魂を救え!』に関しては、たくさんの重要な作品で撮影を担当してきた偉大な女性カメラマンであるカロリーヌ・シャンプティエが起用されている。その理由について、お聞かせいただけますか?

デプレシャン:エリック・ゴーティエと一緒に撮る作品と、カロリーヌ・シャンプティエと撮る作品は、それぞれテーマが異なる系統に属する映画ということになるでしょう。エリックと撮る作品はエレジアックな(哀愁を帯びた、哀歌調の)作品であり、もっと精神的なテーマがある作品の場合は——彼女とは二本の映画[もう一本は『愛されたひと』(2007)]を撮っていますが——、カロリーヌと撮っている。彼女と『魂を救え!』を撮った、もう一つの理由についてもお話ししましょう。音響にベルナール・オーヴィというベテランに入ってもらったのですが、それ以前にベルナールとカロリーヌが一緒に参加した作品として、クロード・ランズマン監督の『SHOHA ショア』(1985)があるという点が大きかった。『SHOHA ショア』は、本当にいろいろな意味で私を変え、強烈に影響を受けた作品で、あの映画を観る「以前/以後」に分けることができるくらい、私にとって重要な作品でした。ですから、『魂を救え!』を撮るにあたって、『SHOHA ショア』のコンビと一緒に仕事をするということがとても大事だったのです。

北小路:デプレシャン監督がそこまで『SHOHA ショア』という作品から影響を受けているという話はあまり知られていないかもしれませんね。少なくともあなたのお仕事から直接その影響を受け取ることは簡単ではない気がします。

デプレシャン:クロード・ランズマンとは、それから10年後に出会い、熱い友情で結ばれることになったし、彼が亡くなるまでとても親しくしていました。いまちょうど製作中の『観客たち』というタイトルの作品では、いろいろな映画の引用をしていて、たとえば『ダイ・ハード』(1988)が出てくるなどするのですが、もちろんランズマンの『SHOHA ショア』の抜粋もあります。私の「映画史」のなかで、あの映画は本当に大切な存在です。

北小路:会場の皆さんがご覧になっているかはわかりませんが、『SHOHA ショア』は第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人虐殺についてのドキュメンタリーです。あのとてつもなく尺の長い映画がいかにすごかったのかを、この場で短く説明するのは難しいですよね?

デプレシャン:いえ、簡単ですよ!(笑)。二分くらいで『SHOHA ショア』を要約できます。ヨーロッパで人類の歴史上類を見ない大量殺戮が起こった、しかしそれは痕跡を残さなかった。しかし、映画とは、痕跡のアートです。クロード・ランズマンは、犠牲者とその殺戮に関わった人々、そして、当時その場にいた証人となるひとたちを撮ることで、痕跡が残らなかったその大量殺戮に、映画において終止符を打つことに成功した。それが『SHOHA ショア』で行われたことです。

北小路:お見事です!(笑)。ところで、ここまでのお話をお聞きしていて、これは日本の観客や批評家特有の傾向なのかもしれませんが、先ほどのあなたの分類でいえば、「エレジアックな映画」に属する『二十歳の死』(1991)から『そして僕は恋をする』(1996)、そして『キングス&クイーン』(2004)に至る流れこそ、デプレシャンさんの世界だと思い込んでいる節が私たちのなかであるのかもしれないと感じました。そういう意味で、『魂を救え!』がちょっと不思議な、デプレシャンさんらしくない、例外的な映画にも見えるという印象それ自体、やや誤解の入り混じった産物なのかもしれない。そもそも、政治的な背景を持った映画を長編デビュー作にしようと思い立った理由、あるいは、その経緯について教えていただけますか?

デプレシャン:[フランスの哲学者]ジル・ドゥルーズがその著書『シネマ2』で打ち出した「脳の映画」という概念があります。先ほどランズマンの名前を出しましたが、私にとってもう一人、重要な存在であり、多大な影響を受けた映画監督としてアラン・レネがいます。彼はまさに「脳の映画」を実践したひとです。「脳の映画」というと、抽象的な概念に思えますが、それを視覚的に見せることもできるのではないか、と考えたわけです。『魂を救え!』では、[冷戦期にヨーロッパやドイツで]東と西を分けた線があって、それが地図の上で視覚的に見えてくる。その線に携わったのは、主人公マチアス(エマニュエル・サランジェ)の父のような外交官であるわけですが、分断された東と西の苦悩、夥しい数にのぼる死というものが、視覚的な線で見えてくる。それに対して、息子のマチアスは、外交官としてではなく法医学の学生として、身体、より具体的には、なぜか自分の手元に転がり込んだ謎の人物の死体の頭部に残された傷という線、痕跡から、その苦悩を探っていく。立場や方法は違いますが、両者とも視覚的な痕跡を辿っていくような仕事をするわけです。いまお話しした二つの痕跡の辿り方を、もう少し子供じみたいい方で説明すると、政治的な地図の線を辿ると、私が大好きな作家であるジョン・ル・カレ的なスパイ映画になり、それを医学的、身体的な線に沿って行えば、デヴィッド・クローネンバーグ的な映画になるというわけです(笑)。

『魂を救え!』©Why Not Productions

北小路:あなたの映画のなかでの医学的な主題については、私もすごく興味があるところなので、またあらためてお聞きすることになると思います。その前に、いまのお話にも一部出てきていましたが、シンプルにいって、アルノー・デプレシャンは、まさに冷戦が終わろうとしていた時期、冷戦の終結直後に映画作家としてデビューを果たした映画作家なのだという事実が『魂を救え!』を観るとまざまざと確認できるわけですよね。冷戦の終結、あるいはそれに伴う混迷について、単に映画を撮るうえでの題材といった次元を超えた思い入れが、あなたのなかにあるのではないかと推測するのですが?

デプレシャン:単なるフィクションの題材というよりも、[第二次世界大戦後にヨーロッパが]東西に分断されたということ、自分が生まれたときに、東西が分断されていたという事実はとても大切というか、考えるに値することだと思っています。ヨーロッパは危険な場所、そこでユダヤ人の大虐殺が起こってしまうぐらいに危険な場所である。だから、これを二つに分けなければならない。そうした理由で、東西に分断されたのかもしれない。そしてその分断された場所に、虐殺されたひとたちの墓地があるのではないかと考えました。ですから、[1989年に]ベルリンの壁が崩壊したときに、人々のあいだで希望が、冷戦期に抑圧されていたもの、特に東側のひとたちが解放されるという希望が生まれたのも当然であると思います。しかし他方で、一つになってしまうことで消え去ってしまうもの、逆の意味で抑圧されてしまうもの、消滅してしまう記憶があるのではないか、といった、ある種のメランコリーを同時に感じたというのも事実です。そうした思いは、『魂を救え!』だけでなく、後年になって私の青年期を題材に撮った『あの頃エッフェル塔の下で』(2015)にも反映されていて、そこでは壁の崩壊のときに感じたメランコリーのようなものが描かれています。

北小路:『魂を救え!』では、「1991年9月」という日付と、旧西ドイツの首都ボンにあったフランス大使館という場所の設定がいきなり字幕で示される。ということは、まさに映画が撮影された時期からあまり時間差がなく、ほぼリアルタイムで起こった出来事が劇中で描かれるということになる。ここでの日付は、あなたにとっての映画とは、「現在」、いままさに起こりつつあるものを捉えるものである、といった意志の表明と受け取っていいのでしょうか?

デプレシャン:当時はまだ首都機能がベルリンに移行する前で、いまだボンが首都だったわけですね。日付については、あなたのいうように、映画を通して「現在」を捉えよう、といった意志ももちろん介在しています。ただ、同時に子供っぽい映画好きな監督として、「スパイ映画」を撮ってやろうと思った自分がいるのも確かです。まず道が見え、警備しているドイツ警察の車がショットを横切っていき、そして地名と日付が出る。スパイ映画としてはなかなか良い始まりではないでしょうか。そしてその後すぐに杖をついた障がいのある少年が遠くに見え、そして主人公のマチアスが現れ、神話的な、心理的な筋も見えてくる。こうして時にスパイ映画への愛、あるいはメタファーや幼年時代への愛に導かれ、チャーチルとスターリンの話から物語が始まる、といった流れを映画の冒頭で堂々とやってみようと思うわけです。

北小路:そうした流れのなかで、冒頭のシーンについても触れておきましょう。最初にデプレシャンさんの映画を観たとき、なんとたくさんの人間が出てくる映画だろう、ということだけで私は感銘を受けたわけですが、『魂を救え!』の冒頭でもたくさんの人間が出てくる。ただし、「男たち」しか出てこない、という点が他の映画と違います。正装の男たちが、先ほど言及された第二次世界大戦終結間際のチャーチルとスターリンの会談、それこそ世界を東と西に分ける天地創造めいた逸話について語り合うわけですね。政治とはやはり「男たち」の世界であるという印象をこの映画から受けます。そして、マチアスはそこからなんとか逃れようとしているようにも見えます。

デプレシャン:そうですね。描写いただいた冒頭で、権力を持っている外交官たちが、まるで自分たちが天地創造をしているかのように話していて、それを傍らでジャン=ジャック(ティボー・ド・モンタランベール)という、すぐあとでマチアスとパリ行きの夜行列車に乗る若い外交官が聞いている。だけどいまおっしゃられたように、マチアスはそこには属したくない、そこには自分の居場所はないというふうに思っている存在なんですね。

北小路:マチアスはフランス人なのですが、ドイツで生まれ育って、初めてパリに行ったという設定ですよね。そういう異邦人的なもの、あるいは除け者的な存在が、デプレシャンさんの映画にいつも出てくるのではないでしょうか?

デプレシャン:そうですね。新作の『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』(2022)のなかでも、主人公ルイ(メルヴィル・プポー)の妻であるフォニア(ゴルシフテ・ファラハニ)が、私は家族の除け者の妻だから、という台詞があります。つまり、主人公の一人であるルイが除け者であるわけです。この「除け者である(パーリア=pariah)」という存在の在り方を別の側面からも説明できるような気がするので、「30年前の映画を語ること」についてのあなたの最初の質問に戻りましょう。ぎこちない手つきや弱点もいっぱいあり、それを語るのはもちろん恥ずかしいですよ。この映画を撮りながら自分もまた、迷宮のなかをさまよっていたことを思い出します。でもその迷宮を楽しんでさまようべきだと考えながら脚本を書いている時、マチアスの帰還が、演劇における偉大なヒーローであるハムレットの帰還と重なって見えてきました。戦士の王だった自分の父とは違う道を行くことを選び、城を出たハムレットはドイツのウィッテンベルクで神学を勉強し、神学者を目指します。城に呼び戻されても、そこにいる戦士たちのなかに入ることを拒み続けます。

『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』©︎ 2022 Why Not Productions – Arte France Cinéma

北小路:でも、そういう存在、迷宮をさまよう除け者にしか見えてこないものもあるのかもしれない。マチアスは、パリで同居することになった、やはり政治や外交官系の同世代の男性であるウィリアム(ブリュノ・トデスキーニ)から、「君はその立場ゆえに、良いメッセンジャーなんだ」というふうにいわれますね。そうした「除け者」であること、良きメッセンジャーであることが、映画作家の姿と重なるようにも思えます。

デプレシャン:ウィリアムとマチアスの関係も、もっとシンプルな、子供っぽい思いつきからきています。ある意味で、二人は補完的な存在なんです。正反対な二人であり、二人で一人みたいなところがある。彼らは全く違うタイプなのですが、二人で同じアパルトマンに暮らすようになって、ここは俺の部屋だ、お前はあっちだ、みたいな線引きをしますし、それが先ほど出てきた東西の分断の線の話に重なってくる。東と西、共産主義と資本主義で分断され、それが大きなスケールになったら、スパイ映画になる。それがひとつのアパルトマンでの話になれば、犯罪映画になる。さらにそれがもっと小さな、カフェのテーブルの上での話になると、ヌーヴェル・ヴァーグの映画になる(笑)。あまり予算もありませんでしたから、撮影監督のカロリーヌ・シャンプティエと一緒にそんなふうに話していました。今日は照明とかカメラを持つ人もいるからスパイ映画にしておいて、次の日はアパートで撮るからあまりスタッフを呼ばなくてよくて、これはサスペンス映画にしておこう、さらにスタッフが少なくて済むカフェで物語を切り取るとなるとヌーヴェル・ヴァーグになる……。そういうふうに、いくつものジャンルを一本の映画のなかで撮るような発想によって、予算の問題なども切り抜けていました。

北小路:いまの話は、これから映画を作ろうとする若いひとたちにとって参考になるでしょうね(笑)。話題を「医学的なもの」に戻したいのですが、なぜマチアスは法医学生なのか? あなたの映画では、先ほど名前の挙がった新作の『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』に至るまで、とにかく病院がたくさん出てくるなど、医療的なもの、医学的なものへの親和性があるように感じられる。そうしたことと長編デビュー作の主人公が法医学生であることに関連はあるのでしょうか?

デプレシャン:まず思い出されるのは、自分が映画の仕事をするといったら、父がとても悲しんだことですね。なぜなら父は私に医者になってほしかったからで、それは自分が医者になりたかったからなんです。医学のなかでも法医学とは、もっとも目立たない、恵まれない、慎ましい部分であるといえて、死んだ人たちの記憶や痕跡といったものを確認し、調べる、医学のなかでも最後のところを引き受ける仕事なんですね。先ほど、「痕跡」ということで『SHOHA ショア』の話をしましたけれど、この話はそこにつながっていきます。

北小路:一方で彼は探偵めいた存在になる。

デプレシャン:もちろんです。もちろん、もちろん!(笑)。マチアスは誠実な法医学の研修生であるわけですが、死体の頭部を見つけたところから、それがいったい誰で、どんな軌跡を辿って生きていたか探り、さらには名前に至るまで、すべてを確認していくことになる。そうした過程を経て、すごく優秀な法医学者になるわけですね。

北小路:最後に死体の生前の「顔」が解き明かされ、あらわになる。私にはそれが感動的に思えました。というのも、「顔」の主題とでもいうべきものが、エマニュエル・ドゥヴォス演じるクロードが登場する素敵なエピソードから継承されるように感じたからです。美術史を学ぶ彼女は視線の交差の話をする。まさに二人が対面し、お互いの顔を見つめ合うさまを捉えるために発明された切り返しショットの原理、映画の原理を説明するかのように……。

デプレシャン:日本でもアメリカでもフランスでも映画で使われている視線に関わる映画の法則、いわゆるイマジナリー・ラインというものがあり、それを超えていけないといわれています。ただ、あの場面でクロードがマチアスに説明していることは、ある意味、とても哲学的な、重要なことなんです。大切な人がいて、その人とまっすぐに向き合ったら、見つめ合うことができない。けれども、それぞれが違うところ、こちら側の人物が右から見て、あちら側の人物は反対に左から見るというふうに違うことをすることで、ようやくお互いが見つめ合える。あの場面で見出せる哲学的真実とは、目の前にいるその大切な人と自分はもちろん異なる存在であるべきだということでしょう。地球上でもっとも素晴らしい知らせ、それは皆それぞれが異なる存在であるということです。同じような存在であろうとすれば、それは恐怖であり、コミュニケーションの欠如となってしまいます。

北小路:いまの素晴らしいお話は『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』につながるものですね。単純にいえば、姉と弟が、それもよくわからない理由でずっと喧嘩をしているという話です。だから主要な登場人物であるはずの、その二人が、物語のかなり後半に至るまで、ずっと会わないままでいるという不思議な構成の映画になる。しかし、いまのお話を受ければ、二人が「異なる存在」であるからこそ、本当の出会いが可能になるのかもしれない。だからこそ、二人の姉弟がどのようにすれば見つめ合うことができるのか、という点が大きなテーマになりますよね?

『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』©︎ 2022 Why Not Productions – Arte France Cinéma

デプレシャン:ええ。姉は弟と会いたくない。ずっと会わないようにしていて、何年もそれが続いている。何が起こったのか、何に怒ったのかも自分で忘れてしまっているくらい長いあいだ、二人は会っていない。もう、なぜその怒りが起こったのか理由さえもわからないけれど、二度と会いたくない。そうした怒りからいかにして彼らを映画的に解放させるかを試みる映画だといっていいでしょう。というのも、憎しみというのは本当に時間の無駄ですからね。私はカトリックの家に生まれているし、キリスト教徒ですけれど、それをあまりにカトリック的なシナリオのなかで解決したくはなかった。ごめんなさい、そんな態度をとってしまって、ごめんなさい……といった図式ではあまりに退屈であり、映画的でもない、それは避けたい、と思っていました。そこで、古代ギリシャで「触れる」とは「出会う」ことであるという教えにまで遡って、それを映画的に見せようと思ったのです。たとえば、木あるいは隣人というものがあり、あなたはそれを、その人を知らない。それにぶつかってしまえば、あざや傷ができるかもしれないけれど、それはむしろ良い知らせであって、ようやく自分は一人でこの地に存在しているのではなく、目の前に堂々と立っている木がある。あるいは自分はまったくの孤独ではなく、目の前に異なる存在である隣人がいることを知るのです。そうしたとてもシンプルだけれども絶対的なことを、まさに映画という視覚のアートで示そうと思ったわけです。

北小路:まだご覧になっていない方も多いでしょうから、あまり話し過ぎてはいけないのでしょうが、まさに、いまおっしゃったようにキリスト教的な悔悛めいたものを回避しつつ、ギリシャ的な偶然=幸運というか、触れてしまう、ぶつかってしまう、出会ってしまうという遭遇による解放を描く素晴らしいシーンがあります。そして、それが同時に映画的な、スラップスティック・コメディを観るかのようなシーンとして演出されているわけです。

デプレシャン:ええ。あのシーンはコメディ・シーンと呼んでいいと思います。

北小路:ほとんど悲劇のように重い側面も濃厚な映画だけど、それが喜劇に転換してしまう。

デプレシャン:カメラの後ろで俳優たちを指導していると、楽しんでいる人たちのその笑いの影に深い悲しみを見てしまい、逆に不幸や悲しみに暮れる人影から、バカバカしいほど滑稽なシチュエーションや滑稽さを見出してしまいます。その両者がつねに人生のなかに混在しているということ……。自分で映画を撮るときには、つねにそれを見せたいと考えています。

北小路:ぜひ、まだの方は『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』をご覧いただければと思います。今夜は、お疲れのところ、長い時間、ありがとうございました。


関連作品情報①|『魂を救え!』

©Why Not Productions

1991年。外交官だった父を亡くしたマチアスは、ドイツからフランスへと向かう列車内で突然身柄を拘束される。その後解放されてパリに着くと、マチアスのスーツケースの中には見知らぬ人の頭部が……。法医学の研究医である彼はこの頭部を分析し始めるが、そこには大きな政治的陰謀が隠されていた。初の長編作品は、敬愛するジャン・ル・カレにならった”スパイもの“である同時に、青春群像劇、クローネンバーグ風ホラーと様々なジャンルが織り交ぜられた意欲作。

「マチアスがずっと大切に持ち歩き続けるあの頭部は、ヨーロッパの死、ロシアの死、科学の死、様々なメタファーであると同時に具体的な何かに、ひとりの人間に再びなっていく」(アルノー・デプレシャン)

原題:La Sentinelle
1992年/フランス/146分 カンヌ映画祭〈コンペティション部門〉正式出品
出演:エマニュエル・サランジェ、エマニュエル・ドゥヴォス、マリアンヌ・ドニクール、ジャン=ルイ・リシャール

出町座上映情報:11月1日(水)16:00~


関連作品情報②|『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター

©︎ 2022 Why Not Productions – Arte France Cinéma

家族なのに? 家族だから!
マリオン・コティヤールとメルヴィル・プポーが相容れぬ姉弟に。
アルノー・デプレシャン監督が描く、最高に美しくて、最高に仲の悪い、姉と弟の物語。

2022年/France/110分
原題:Frère et sœur 英題:Brother and Sister
字幕:磯尚太郎 字幕監修:松岡葉子
配給:ムヴィオラ
出演:マリオン・コティヤール、メルヴィル・プポー、ゴルシフテ・ファラハニ、パトリック・ティムシット
監督:アルノー・デプレシャン
脚本:アルノー・デプレシャン、ジュリー・ペール
撮影:イリナ・ルブチャンスキー
編集:ロランス・ブリオー
音楽:グレゴワール・エッツェル

出町座上映情報:10/27(金)~


関連上映情報|
第5回 映画批評月間 ~フランス映画の現在をめぐって~

スペシャルエディション アルノー・デプレシャンとともに(出町座:2023/10/27-2023/11/16)

日本でなかなか見られないフランスの最新作、あるいは隠れた名作を紹介する特集「映画批評月間 フランス映画の現在をめぐって」。第5回目となる今回は、90年代から現在までフランス映画を牽引してきたアルノー・デプレシャン監督とともにお送りします。最新作『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』日本公開(全国順次公開中)を記念し、監督デビュー作『二十歳の死』から近作まで9本を一挙上映します。そのほか、カンヌをはじめとした国際映画祭や批評家たちから高く評価された最新のフランス映画も上映。作家性、アート性に満ち、作り手と観客の批評性を刺激する映画たちを、スクリーンで観られる貴重な機会です。ぜひじっくりお楽しみください!

◉上映作品|アルノー・デプレシャン監督レトロスペクティブ◉

《トークイベント情報》
10/27(金)19:35-『愛されたひと』上映後
登壇:北小路隆志(映画批評家/本学映画学科教授)

◉上映作品|批評家たちオススメの最新フランス映画◉

第5回 映画/批評月間 ~フランス映画の現在をめぐって~
主催:シネ・ヌーヴォ(大阪)、出町座(京都)、一般社団法人コミュニティシネマセンター
共催:アンスティチュ・フランセ 助成:アンスティチュ・フランセパリ本部、ユニフランス
アンスティチュ・フランセ 映画プログラム オフィシャル・パートナー:CNC、笹川日仏財団
特別協力:ムヴィオラ、ぴあフィルムフェスティバル、tapetum works
フィルム提供及び協力:アルテ・フランス・シネマ、Bart.lab、セテラ・インターナショナル、コムストック・グループ、レ・フィルム・デュ・ロザンジュ、インディ・セールズ、株式会社アイ・ヴィー・シー、マーメイドフィルム、MK2、パテ・フィルムズ、ル・プティ・ビュロー、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭、ワイノット・プロダクション