『ケイコ 目を澄ませて』における到達と変奏
採録|『ケイコ 目を澄ませて』アフタートーク vol.4|北小路隆志
2023年2月24日、三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』のヒットを記念し行われた、出町座でのアフタートークの模様を全4回に分けてお届けしています。最終回の今回は、これまで見てきた三宅映画の特徴とその変化を、最新作の『ケイコ 目を澄ませて』で確認します。
◆『ケイコ 目を澄ませて』における「サイド・バイ・サイド」と「フェイス・トゥ・フェイス」
© 2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
ここからは、先ほどご覧になったばかりで、まだ皆さんの記憶に新しいであろう『ケイコ 目を澄ませて』について、これまでの話の流れを受けて、ただし、時間の関係上、やや駆け足になるでしょうが、いくつか僕にとって重要だと思える点を指摘していきます。
まずは、「サイド・バイ・サイド」の関係性なのか、それとも「フェイス・トゥ・フェイス」なのか。もちろん二者択一ということでもなくて、それらをどうミックスしていくのか。驚くべき最新作である『ケイコ 目を澄ませて』を、そうした観点から捉えると、どんなことが言えるのか?
大原則として、「ボクシング映画」というジャンルに括ることが妥当かどうかはともかく、『ケイコ 目を澄ませて』は、主人公がボクシングをする映画であることには違いないわけですよね。ボクシングは、当然、誰かと誰かが向き合って、パンチを打ち合い、そして勝負をつける。まさに「フェイス・トゥ・フェイス」の競技です。思うに、どのようにして「フェイス・トゥ・フェイス」であるはずのボクシングを「サイド・バイ・サイド」として描くのか、ということが、この映画の見どころなのではないか。ボクシングは「サイド・バイ・サイド」でもあるよね、という風に見せることができるのか、あるいは、両者の混淆として見せるのか、というところが大きな課題であるように思います。
もちろん、この映画にはさまざまな「フェイス・トゥ・フェイス」の局面もあって、たとえば冒頭から何度も出てくる「鏡」の役割がそこに関わります。『ケイコ 目を澄ませて』では、これまでの三宅さんの映画にも増して、鏡を介して「自分と向き合う」という描写が目立ちます。映画の冒頭、自室でノートを書いているところから始まり、ジムの更衣室にもあったし、ジムのなかには当然自分の姿を見せる大きな鏡がある。試合の度にケイコの顔は怪我で歪むわけですが、鏡に映し出された自分を見ることで、ケイコはそれに直面し、確認する。でも、これも厳密にいえば切り返しで描かれることはなく、本人と鏡像の「サイド・バイ・サイド」というか、「フェイス・トゥ・フェイス」との混淆なのかもしれません。
◆『ケイコ 目を澄ませて』における「3」
© 2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
これまで三宅さんがこだわってきたように思える「3」という要素については、おそらく今の「自分と向き合う」とも絡みつつ、かなり意味合いが変わるように思えますが、全くなくなるのかというと、そういうわけではないと思います。たとえば、ちょっとこじつけめくかもしれませんが(笑)、ケイコと同じく聴覚障がい者である2人——この人たちがケイコ役の岸井さんに手話のトレーニングをしたそうです——と(ケイコの)3人で集まって、浅草のカフェで喋っているというシーンがあります。ここは、僕の記憶では、まずケイコのクロースアップから始まり、向かい合っている女性のアップに変わり、次にケイコと横の女性のツーショットになって、また切り返して……と本当にオーソドックスに編集されていて、3人の和気あいあいとした「会話」が映し出されている。ここで日本語の字幕がついておらず、一般の観客に会話の内容が理解できない点に関して、それはどういうことなんだ、みたいな点をいろいろと追求されている論者もいらっしゃいますが、さっきの『きみの鳥はうたえる』のように凝ったことをせずに、こんなに素直に、いわば普通に、「3」をやっちゃうんだ、という驚きが僕にはあるんですね。「3」に対する方法論を頭で考えることなく、自然にやり取りさせているという点にむしろ面白さや感動がある。
さらに言えば、この後、3人が浅草の横断歩道を慌てて渡る様子を引きのパンで捉えていて、この「3」はバラバラになる。2人は向こうに行き、ケイコだけが手前に来る、という「3」の分解過程も描かれるわけですが、3人がバラバラになるシーンは、ケイコが新たな移籍先になるかもしれないジムに出向くシークェンスの終わりにもありますよね。交渉(契約)がまとまりそうになったとき、彼女は「うん」と言わなかった。彼女は「契約」にこだわりがありますから、じゃあ別の契約を交わします、とは安易に言わないわけです。そうした彼女の態度に怒るトレーナーが外に出るとすぐさまプイと立ち去り、ケイコも反対方向へとすたすたと歩いていく。
◆『ケイコ 目を澄ませて』における「契約」と「書くこと」、「手渡す(手渡さない)こと」の変奏
今日、最初にお話ししたように、あらためて観て泣いてしまった僕のなかで最も感動的な場面について、これから話しますが、それが感動的なのは、やはりお話ししてきたような、これまで三宅さんが追求してきた主題のいくつかが、そこに集約されている。さまざまな支流がそこで合流しているからだと思います。
いろいろな経緯があって、ケイコは「一度お休みしたいです」という手紙を書く。もちろんこれは生半可なことではなく、三宅さんの映画にとって「契約」と関わる「書く」という行為ですね。それをケイコはポケットに入れ、トンネルか何かを抜けてバスでジムに行くわけです。ジムでポストに投函しようとするが、入れられない。三宅さんの映画での原則から言えば、「手渡すこと」が「契約」を終わらせるために必要になってくるわけです。そこで、ケイコは、鍵がかけられていないジムの扉を開けて入ってゆく。ふとなかを覗くと、三浦友和さんが演じる会長さんは、彼女の過去の試合のビデオを1人で見ている。彼女はそれを見て、またもう1回、外にまで出て行き、そのまま逃げ去ろうとするのかなと思われもしましたが、そこで踏み止まり、1回お辞儀してからまた入ってゆく。先ほど三宅さんの映画で印象的な半開きの扉の話をしましたが、ここでのジムの扉もそこに繋がるように思います。
そのフレームというか出入口はめちゃくちゃオープンでもないし、でも閉じてもいない。なので、逡巡して入っていくこともできるだろうし、遠ざかることもできるでしょう。でも彼女はもう1回入っていく。その直後のカットでは、会長がこの映画にとってとりわけ重要な鏡をきれいに拭いている。その傍らでケイコは腰を下ろして屈伸みたいなことをしている。そして彼が近づき、ふと引きのショットに切り換わると、2人は横に並んで——つまり「サイド・バイ・サイド」になって——鏡に向かって、打つ練習というか、シャドウボクシングをする。
© 2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
実はその前に早朝の川のほとりで、2人が一緒に並んで、会長がする動作を、少し遅れてケイコが模倣するという並列の構図はありましたが、最も感動的なのは、その反復でもある、2人が鏡の前で並列しながら、ボクシングのパンチを放つという、この場面です。画面奥に鏡があるので、4人ということになるかもしれませんけど、そこに僕はグッときちゃうわけです。2人は並びながら、それぞれが鏡に向き合う。見事な「サイド・バイ・サイド」でありつつ、「自分と向き合う」という意味での「フェイス・トゥ・フェイス」との混淆でもある。そして、これまで「手渡すこと」が大事だった三宅さんの映画のなかで、手渡さないという選択や行為が描かれること。「一度お休みしたいです」とは言わないこと。書いた紙をポケットにしまってしまうこと。「手渡さない」ということが、この映画では、「手渡す」という主題における最も重要な変奏、バリエーションになるということが描かれるわけです。そして、そのことによって「契約」は維持される。
ボクシングという「フェイス・トゥ・フェイス」の競技を、いかにそれだけじゃないかたちで見せるのか。「サイド・バイ・サイド」のボクシングもあるわけです。それがいちばん顕著に表れるのが、今お話しした会長とのやり取りですが、それだけでなく、トレーナーのまっちゃん(松浦慎一郎)と2人で行われる、さまざまなパターンのトレーニングも素晴らしいですよね。彼らはそれこそ「フェイス・トゥ・フェイス」であるボクシングの宿命に異議を唱えるかのように、クルクル回転し、ステップを踏んでいる。僕は、ほとんどダンスを見るようだと思うんですけど、もうカメラの切り返しなんかしなくてもいい。2人がクルクル回転しながらボクシングをする。ボクシングというか、ミット打ちをやっている。それをフィックスのロングショットで撮るだけでいい。
つまり「フェイス・トゥ・フェイス」のスポーツを「サイド・バイ・サイド」で捉えているというか。あの2人は対峙しているとも言えるけど、一緒に横に並んでいるようにも見える。さらに、リング下にいるもう1組のコーチと選手までもが、鏡の前で彼らの真似を始める。何というか、横並びの増殖が起こる。
ボクシングをどう撮るのか。「フェイス・トゥ・フェイス」であるという宿命をどうやって換骨奪胎して別のものとして見せるのか、というのが、この映画のやっぱりすごいところ、面白いところです。で、そこから独特なユーモアも生じる。そういう意味では、三宅さんは怒るかもしれませんけど(笑)、実は先駆者がいる、みたいな話を最後にちょっとだけしたいと思います。
◆「サイド・バイ・サイド」のボクシングの先駆者——チャールズ・チャップリン
『City Lights(街の灯)』(1931)というチャールズ・チャップリンの有名な映画がありまして、ご覧になっている方もいらっしゃるかと思いますが、その映画で見せ場の一つとなっているのが、ボクシングの試合なんです。よく知られた話ですが、当時、ハリウッドは基本的にトーキーに移行していますけど、彼はそうしない。ただ、いわば純粋なサイレント映画にこだわる、ということではなく、音楽だけでなく、効果音というかサウンドはつけるなどしています。そこで、そのシーンを見直してみると、音が試合を決めている。ボクシングというゲームにとって聴覚的なサウンドがいかに大事なのかということがよくわかりもします。ゴングの音が試合の始まりや区切り、終わりといった句読点を打つわけです。もちろん、チャップリンはそれをギャグに使うわけですが。
ただ、今はそういう話は置いておいて、ここからは本題のボクシングの捉え方について考えてみましょう。いつものようにチャップリン自身が演じる主人公は、そのボクシングシーンにおいて、相手と「フェイス・トゥ・フェイス」にはなりたくないわけです。なぜなら、すぐに叩きのめされ、負けてしまいますから。
蛇足かもしれませんが、チャップリンがこのボクシングに挑まざるを得ない状況を簡単に説明しておくと、彼は自分が好きな、目が見えない女性を助けるためにお金を必要としています。だから柄にもなく、ギャラ目当てでボクシングの試合に出場することになる。ただ、元々対戦する予定だった相手とは取引が成立していて、適当に八百長をやってギャラも半分ずつにしようね、つまりボクシングだけど「サイド・バイ・サイド」でやるという契約(約束)を交わしていたんですね。ところが試合の直前に、約束していた相手がいなくなっちゃって、代わりのやつが来たわけです。この男はマッチョで洒落もわからない、面白みのないやつなので、自分が勝ってギャラを独り占めすることしか眼中にない。なので、真正面から向き合ってくる。つまりは「サイド・バイ・サイド」を拒絶するわけです。 ですからその場面では、「サイド・バイ・サイド」でやりたい人(チャップリン)と、「フェイス・トゥ・フェイス」でやろうとする人(対戦相手)がボクシングを始める。勝ち負けはとうでもいいとしても、今お話しした事情でお金が必要なので、逃げるわけにもいかない。じゃあ、どうしたらいいんだろう……。チャップリンが演じる浮浪者は、「サイド・バイ・サイド」にしたい、あるいは「フェイス・トゥ・フェイス」にしたくないわけです。向き合いたくない。向き合う、普通のボクシングをチャップリンはしたくない。そこで彼は、対戦相手とのあいだに、人を1人、入れる。そうすれば、顔を向き合わせなくて済むわけです。もう1人、リングにはレフリーがいるわけで、その人をあいだに挟み、一緒にステップを踏めば、もう顔を向き合わせなくていい、それがほぼ一貫して長回しのロングショットで捉えられる。そんな独創的な方法でボクシングに宿命的な「フェイス・トゥ・フェイス」が換骨奪胎され、優雅で、そして何よりもユーモラスなボクシングが展開されることになる。こうして言葉で説明しても限界があるので、未見の方は、ぜひご覧ください。僕は何度見ても笑ってしまいますし、おそらく皆さんもそうなると思います。
◆古典的な映画に見られる味わいと「ケイコ」を見ること
最後に簡単に『ケイコ 目を澄ませて』の話に戻ります。今日は、三宅さんの作家性云々を中心に、お話ししてきましたが、最初に触れたように、それを知らずとも普通に面白い映画であり、それが素晴らしいとも思う。その呼吸ともいうべきものは、チャップリンが例として適当かどうかわかりませんが、古典的な映画のテンポなり味わいなりが十分に埋め込まれていることから生じ、だからボクシングという緊迫したスポーツを描くにあたっても、いい意味で笑える、ちょっとおかしくなる、というシーンも織り交ぜられる、そうした映画になっている。だから、ややへそ曲がりな人間が観ても、面白いとしか言いようがない。あえて何の関係もなさそうな『街の灯』に言及したくなったのも、1つには、そうした事情によります。
© 2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS
そうした古典的ともいえそうな味わいは、ある意味で、『ケイコ 目を澄ませて』はもはや「3」にこだわる映画ではなくなっているのかもしれない、という先ほどの話とも関わります。もう「1」でいいんじゃないかってことですよね。ただ皆さんがケイコ及び、それを演じる岸井ゆきのさんを見ているだけでいい。『街の灯』の見事さが、結局は、チャールズ・チャップリンその人に収斂されるように。三宅さんのなかで、初めて「1」だけ見ていればいい映画を作ろうという意思があったのではないか。ですから、タイトルもひょっとしたら「ケイコ」だけでいいのかもしれない。そんな映画なんですね。ただし、その「1」は鏡に向き合い、自分に向き合うことで「2」になるかもしれないし、さらには今見てきたように「3」もあるわけです。……ただ、もういいんじゃないか。これまで「3」という数字に取り組んできた三宅さんが、ただシンプルに、この人を見よ、と。そんな境地に達した映画が『ケイコ 目を澄ませて』である。僕はそう思っています。
あまり言葉はいらない映画だ、と最初に言っておきながら、いろいろな言葉を発してきちゃいましたが、これを今日のとりあえずの結論としたいと思います。長い時間、お付き合いいただき、ありがとうございました。(終)
※当日のトーク及び採録に当たり、三宅唱さん、出町座の田中誠一さん、会場でのオペレーターもお願いした中川鞠子さんにご協力いただきました。感謝いたします。
関連作品:『ケイコ 目を澄ませて』
不安と勇気は背中あわせ。震える足で前に進む、彼女の瞳に映るもの――。
嘘がつけず愛想笑いが苦手なケイコは、生まれつきの聴覚障害で、両耳とも聞こえない。再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ねる彼女は、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され、言葉にできない想いが心の中に溜まっていく。「一度、お休みしたいです」と書きとめた会長宛ての手紙を出せずにいたある日、ジムが閉鎖されることを知り、ケイコの心が動き出す――。
2022年/日本/99分
出演:岸井ゆきの 三浦誠己 松浦慎一郎 佐藤緋美 中原ナナ 足立智充 清水優 丈太郎 安光隆太郎 渡辺真起子 中村優子 中島ひろ子 仙道敦子 三浦友和
監督:三宅唱
原案:小笠原恵子「負けないで!」(創出版)
脚本:三宅唱、酒井雅秋
製作:狩野隆也、五老剛、小西啓介、古賀俊輔 エグゼクティブプロデューサー:松岡雄浩、飯田雅裕、栗原忠慶
企画・プロデュース:長谷川晴彦 チーフプロデューサー:福嶋更一郎 プロデューサー:加藤優、神保友香、杉本雄介、城内政芳
French Coproducer:Masa Sawada
撮影:月永雄太 照明:藤井勇 録音:川井崇満 美術:井上心平 装飾:渡辺大智 衣裳:篠塚奈美
ヘアメイク:望月志穂美、遠山直美 ボクシング指導:松浦慎一郎 手話指導:堀康子、南瑠霞 手話監修:越智大輔
編集:大川景子 音響効果:大塚智子 助監督:松尾崇 制作担当:大川哲史
製作:「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会 制作プロダクション:ザフール 配給:ハピネットファントム・スタジオ
上映情報:出町座にて上映中
三宅唱監督特集2023(出町座)
『ケイコ 目を澄ませて』ロングラン御礼企画(2023/04/28-2023/05/25)
三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』は2022年度の各映画賞で非常に高い評価を得、多くの観客からの絶大な支持も受けました。出町座では昨年12月の封切りよりロングラン上映中ですが、ご来場のお客さまがいまだ途絶えることがありません。そんな稀有な作品を世に放った三宅唱監督のこれまでの作品を独自の形で上映します。劇場用長編映画として撮られた作品はもちろん、インディペンデント作品、アートプロジェクト企画や地域との連携、ミュージックビデオなどのアーティストとのコラボレーションなど、非常に多角的なフォーマットに柔軟に対応しながら、ひとつひとつが明確なアプローチを持ち、原初的かつ新鮮な映画的魅力に満ちた三宅監督の多様な作品群を、ぜひこの機会にご体験ください。
◉上映プログラム◉
【Aプログラム】『1999』『4』『マイムレッスン』『やくたたず』
【Bプログラム】『スパイの舌』『NAGAHAMA』『密使と番人』
【Cプログラム】『Playback』
【Dプログラム】『きみの鳥はうたえる』
【Eプログラム】『THE COCKPIT』「Goin Back To Zama City」
【Fプログラム】『無言日記2014』『土手』
【Gプログラム】『ワイルドツアー』
【Hプログラム】『無言日記2015』『ROAD MOVIE』
◉トークイベント情報◉
5月3日(水・祝)【Bプログラム】上映後
登壇:三宅唱監督
聞き手:北小路隆志(映画批評家/本学映画学科教授)